大阪のシンボルとも言われる、新世界の中心部に建つ展望塔と言えば?

「通天閣」です。5階の展望台には、その像の足の裏を撫でると幸運が訪れるという言い伝えがある幸運の神様「ビリケン(Billiken)」の像が安置されています。2007年5月15日に、国の登録有形文化財となりました。

みなさんは通天閣と聞くと、きっと大阪を代表する観光スポットとして思い浮かべることでしょう。しかし、この愛らしい展望塔には、実は知られざる興味深い歴史や秘話がたくさん隠されているのをご存知でしょうか。

通天閣誕生の意外な経緯

通天閣の歴史は意外にも古く、初代通天閣は1912年(明治45年)に建設されました。当時の高さは75メートルで、なんとパリのエッフェル塔を模して作られたのです。設計者は内藤多仲という建築家で、後に東京タワーも手がけることになる人物でした。しかし、この初代通天閣は太平洋戦争中の1943年に火災により焼失してしまいます。

現在私たちが見ている通天閣は、実は1956年に再建された二代目なのです。再建にあたっては、地元の人々の熱い想いと募金活動が大きな力となりました。新世界の商店街の人々が「やっぱり通天閣がないと新世界じゃない」と立ち上がり、一口一円からの募金を集めたのです。この庶民的な温かさこそが、大阪らしさの象徴と言えるでしょう。

ビリケンさんの不思議な来歴

さて、通天閣といえば欠かせないのがビリケンさんですが、この愛らしい神様の正体をご存知でしょうか。実はビリケンは、1908年にアメリカの女性芸術家フローレンス・プリッツが制作したキャラクターなのです。尖った頭に大きな耳、そして愛嬌のある表情が特徴的ですね。

このビリケンが日本にやってきたのは明治時代のこと。当時は全国的にビリケンブームが起こり、様々な商品に使われていました。そして初代通天閣が建設された際、新世界のルナパークという遊園地にビリケンの置物が設置されたのが、大阪とビリケンの縁の始まりです。

興味深いのは、ビリケンの足の裏を撫でると幸運が訪れるという言い伝えです。この風習は実は日本独自のもので、本場アメリカにはない文化なのです。大阪の人々の商売上手な発想と、縁起を担ぐ心が生み出した、まさに「大阪流おもてなし」の傑作と言えるでしょう。

通天閣に隠された技術とこだわり

現在の通天閣には、見た目の美しさだけでなく、実は最新技術も詰め込まれています。特に有名なのが、塔の色で天気予報を知らせるネオンサインです。白色なら晴れ、オレンジ色なら曇り、青色なら雨という具合に、夜の大阪の空に明日の天気を教えてくれるのです。これは1965年から続く伝統で、地元の人々にとって生活の一部となっています。

また、エレベーターにも注目してください。通天閣のエレベーターは、なんと透明なガラス張りになっており、上昇中に大阪の街並みを眺めることができます。特に夜景は絶景で、多くの観光客を魅了しています。

新世界との深いつながり

通天閣を語る上で欠かせないのが、その足元に広がる新世界という街です。この地域は明治36年(1903年)に開催された第5回内国勧業博覧会の跡地に作られた歓楽街で、「新世界」という名前は当時の最先端を意味していました。

新世界は大阪グルメの宝庫としても有名です。串カツ、たこ焼き、お好み焼きなど、大阪を代表するB級グルメの名店が軒を連ねています。特に串カツの「二度漬け禁止」というルールは、新世界から生まれた文化として全国に知られるようになりました。通天閣を訪れた際は、ぜひこれらの庶民の味も楽しんでいただきたいものです。

文化財としての価値

2007年5月15日の国の登録有形文化財認定は、通天閣が単なる観光施設ではなく、日本の近代化の歴史を物語る重要な建造物として認められた証です。戦後復興の象徴として、また大阪の庶民文化を育んだ場所として、その価値は計り知れません。

登録有形文化財となったことで、通天閣は未来へと受け継がれるべき大阪の宝物としての地位を確立しました。高度経済成長期の大阪の活気と、人々の夢や希望が込められたこの塔は、今もなお多くの人々に愛され続けています。

通天閣は単なる展望塔ではありません。大阪の歴史、文化、そして人々の心が詰まった、まさに大阪のシンボルなのです。次に大阪を訪れる機会があれば、ぜひビリケンさんの足の裏を撫でながら、この愛すべき塔の深い物語に思いを馳せてみてください。きっと新たな大阪の魅力を発見できることでしょう。


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